大野市にある亥山(いやま)城について一言。
平成30年に発刊された『大野市史 通史編上』原始~近世で亥山城は亀山城ではないか、という新見解が出されていることを知りました。3年前にも大野市在住の「小山荘歴史の会」の方々と大野城(亀山城)を踏査した折、亀山城は亥山城かも知れないという話があるが、あなたはどう思いますか、と質問されたことがありました。それは、この市史の記載内容から出た話だったようですね、今思えば…。
小山荘歴史の会の方々に、大野城に新しく竪堀が確認できたので一緒にみてほしいという城歩きマンの誘い話に乗っていただいて、本丸周辺の斜面を歩いたときのことでした。もし、大野城が南北朝期の亥山城に該当するというのなら、イメージがぴったりで、話に弾みが付いてくる、これまでの話よりもずっと躍動感あふれる歴史の展開になりますね、というようなことを話した覚えがあります。
山麓西側駐車場にある説明板
従来の見解では、JR大野駅近くの、日吉神社のある高台を亥山城または土橋城としていましたので、お城と言っても館城で、周りに掘をもった平城の印象でした。しかし『大野市史』の見解では亀山城が亥山城だというのですから、本格的な山城になります。ですから亀山城は戦国時代の金森長近が初めて築いたのではなく、既にあった山城に手を加えて,現在の姿になったということになります。
確かにその目で見ると、近世の大野城には不要と思える階段状の曲輪があちこちに遺っている事実や、山頂部から裾部にまで達する長大な竪堀が3ヶ所以上に刻まれていること。そもそも尾根線に並ぶ連郭式の城郭と裾部の居館とが一体の城郭ということでも古式の様相をイメージさせるものです。
ただ、『大野市史』ではこうした大野城の築城に関する変遷については一切触れておらず、山城直下の二の丸、三の丸の発掘調査の所見が添えられているだけでした。
大野城遠景(山麓駐車場から)
今後、大野城の歴史についてはこの点をもう少し掘り下げて行かないと、大野城の変遷の実態が浮かび上がってこない。南北朝期と応仁の乱を経て、大野城=前身の亥山城がどのような変遷を辿ったのか、このことを追求したいと願う城歩きマンでした。